【 概 要 】−金沢城(石川県金沢市)の前身である金沢御堂は天文14年に一向宗徒によって建立されました。寺院とはいえ当時の加賀国では一向宗徒によって実質的な支配が行われていた為、金沢御堂はその拠点として大規模な城砦として整備されました。天正8年、加賀侵攻と一向宗の弾劾を行った織田信長が家臣である柴田勝家を派遣し、勝家の武将である佐久間盛政が金沢御堂を攻略、盛政は石川郡と河北郡の領主となり金沢御堂跡を改修し尾山城を築城します。天正11年賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に付いた前田利家が加増を受け尾山城主になると城の改修が始まり、天正15年キリシタン大名だった高山右近が前田家の客将として城の普請を任せられると大手、搦手付近を大改修し城名も金沢城に改められました。文禄元年には後の加賀藩2代藩主前田利長が2の丸、3の丸、4の丸、北の丸などを増築し、防衛的にも百間堀や高石垣を整備しています。当初、金沢城本丸には5重天守閣が建てられていましたが、慶長7年、落雷により焼失、その後代用として3重櫓としましたが、その櫓も宝暦9年の大火により焼失しています。明治時代以降、金沢城は廃城となり破却、または払い下げで城内の建物が次々に失われ、明治14年の火災で2の丸御殿を中心に多くの建物が焼失しました。その後、金沢城跡には第六旅団司令部や第九師団司令部などが置かれ、第二次世界大戦後は金沢大学の敷地となり一般人からは遠い存在になりました。平成7年に金沢大学が郊外に移転すると金沢城跡は国から石川県に移管され、城内の整備が開始、菱櫓、五十間長屋、橋爪門、続櫓、河北門などが次々と再建され平成18年に日本100名城に選定、平成20年には金沢城跡として国の史跡に指定されています。金沢城の遺構としては石川門と三十間長屋、鶴丸倉庫(金沢城土蔵)が城内に残る遺構として国指定重要文化財に指定され、再度移築されてきた無指定の切手門があります。移築されたものは金沢城の2の丸御殿の唐門が尾山神社の東神門に、金沢城2の丸能舞台が中村神社拝殿へ、金沢城内に建立された東照三所大権現社の社殿が尾崎神社社殿へそれぞれ移築されています。現在は金沢城公園として一般市民に開放され市民の憩い場になっていると共に観光名所の1つにもなっています。
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