【 概 要 】−加賀藩は最盛期は120万石以上を領した為、その本城である金沢城の城下町には数多くの家臣が居城する事になりました。その為、大消費地として多くの商店が進出すると共に、文化的も大きく発展しました。その中でも、藩の奨励もあって茶屋文化と呼ばれる歌舞伎や和歌、茶の湯などが武士だけでなく豪商や豪農にも浸透し、城下の中にはそれらが行える茶屋が無秩序に設けられました。茶屋の数が飛躍的に増えると、それに伴い現在でいう風俗店に近い茶屋も出現し、中には加賀藩士が藩に許可もなく複数の遊女を囲いいかがわしい店を出店する例もあり、事態を重く見た加賀藩は金沢城の城下の東西2か所(ひがし茶屋街・にし茶屋街)に遊郭を設置しました。これにより、茶屋や出会宿は遊郭以外での営業を禁止し、周囲に柵を設け、出入り口では身分を照合するなど制限を加え厳しく管理しました。一方、町割りは直線を基調とした整然なもので、建物も一般的な町家建築は軒の高さを制限されましたが、遊郭内部の茶屋建築ではそれらの制限が無かった事から軒の高い建物が建てられました。江戸時代末期にはひがし茶屋街の中に存在する茶屋の数は112軒に及び、大きく発展し、遊郭外にも無許可で出店する店が横行した事から明治時代に入ると隣地にある主計町にも茶屋街が設けられました。現在でも、ひがし茶屋街には当時の茶屋建築が数多く存在し、全国的見ても数少ない茶屋街の町並みが良好に残され「金沢市東山ひがし伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
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