【 概 要 】−石動山は古くからの信仰の山で、伝承によると奈良時代に泰澄大師、又は智徳上人、又は方道仙人によって開かれたとされます。山頂には鎮守である伊須流岐比古神社が鎮座し別当寺院として石動寺が設けられ、特に伊須流岐比古神社は現在の石川県だけでなく新潟県や山形県の日本海側にも分社が勧請され信仰の広がりが窺えます。石動寺はその後天平勝宝寺に寺号を改め仁和寺と勧修寺の法親王が大宮坊座主を歴任しました。鎌倉時代になると山岳信仰の修行道場的要素が強くなり宗派を問わず数多くの修験僧が集まりました。石動山の最盛期は領地4万3千石、数百の院坊、3千人余の修験僧を擁し、次第に武装化して周辺の領主にも一目される存在となりました。南北朝の騒乱では南朝方の公家大将の1人で越中国司中院定清に与した為、北朝方の普門俊清の侵攻を受け全山焼き討ちにあっています。その後石動山は再興を果たすものの、天正10年(1582)に本能寺の変で織田信長が死去した事に伴い越後の上杉方に与していた能登国守護職畠山家の遺臣が再興を図る為に石動山に立て籠もった為、前田利家などが中心となり討伐され、再び全山が荒廃しました。江戸時代には加賀藩前田家の保護を受け、全盛期には及ばないものの石動山には多くの社殿、堂宇が立ち並ぶようになっています。しかし、明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈運動、庇護者である加賀藩の廃藩などで再び衰微しました。
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