【 概 要 】−創建には諸説あり崇神天皇6年、法道上人により開かれたのが始まりとも養老元年に泰澄法師が開山したと云われています。延長5年に編纂された延喜式神名帳に式内社小社として記載され、能登国二之宮として広く信仰されました。古くから神仏習合し、別当寺院である「石動山天平寺」は白山と並ぶ一大山岳霊場として寺運が隆盛し最盛期には末社80余社、坊院360余を擁し寺領も4万3千石を領しました。政治的にも大きな影響力を持った為、度々戦乱に巻き込まれ、建武2年(1335)には建武の新政に参画した中院定清(源定清、越中国司)を境内に匿った事で足利尊氏の命を受けた護普門(井上)俊清に侵攻され焼き討ちにあっています。暦応6年に尊氏が再興し、室町時代には能登守護職の畠山氏が庇護し、畠山氏が滅ぶと庇護者を失い衰微します。僧兵は新たに領主になった前田家と対立した為、大軍によって攻められ全山焼き討ちとなり多くの社殿、堂宇、社宝、記録などが焼失しています。その後は前田家の祈願所として再興庇護され天正19年(1591)には前田利家が米百俵を寄進、慶安5年(1652)には加賀藩3代藩主前田利常が社領150石を寄進、応永3年(1654)には藩費によって現在の本殿が再建されています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により別当寺院だった石動山天平寺は廃寺となり明治5年に郷社に列し大正10年に神饌幣帛料供進神社に指定されています。
|