【 概 要 】−那谷寺(石川県小松市)の創建は養老元年(717)、泰澄法師が白山を開いた際、自ら千手観音像を彫像し岩窟内に一宇を設け安置したのが始まりと伝えられています。当初は岩室寺と称していましたが寛和年間(985〜87)に花山法皇が参拝に訪れた際、全国の観音霊場の総納霊場と定めた事で西国三十三観音霊場の一番札所の那智山と三十三番札所の谷汲山華厳寺の一字を取って那谷寺と改称しました。以後、勅願寺として寺運が隆盛し境内には数多くの堂宇が建立され、広大な寺領を有する大寺となり、最盛期には白山三ヶ寺(那谷寺・温谷寺・栄谷寺)の1つに数えられ支院、僧坊合わせて250ヶ寺を擁していたと云われています。南北朝時代、北朝側の富樫氏が那谷寺を占拠し立て籠もったことで、南朝側の軍勢との戦場となり兵火により多くの堂宇が焼失、さらに、文明4年(1482)と文明6年(1484)に一向宗との対立から兵火にかかり全山焼き討ちにあいます。その後再建されることなく衰退の一途を辿っていましたが、寛永17年(1640)、加賀藩2代藩主前田利常が再興し、藩のお抱え大工山上善右衛門に命じて本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを建立させ、歴代前田家の祈願所としました。以来、加賀藩の庇護もあり再び寺運が隆盛し元禄2年(1689)には松尾芭蕉が奥の細道の行脚の際那谷寺を訪れ「石山の 石より白し 秋の風」の句を残しています。明治時代初頭に発令された神仏分離令とそれに付随する廃仏毀釈運動により再び衰退しましたが昭和に入り堂宇の保存を中心に再興が計られ多くが国指定文化財に指定されました。
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