【 概 要 】−安宅町の名称の由来は「異国人が来襲した海岸」=「寇が浦」とも云われ古くから海と密接した地域でした。律令時代北陸地方が開発されると官道である北陸道が開削され当地には江戸時代の宿場町にあたる「駅」が設けられ安宅駅と呼ばれました。記録的に最古のものは長岡京(山城国乙訓郡にあった古代の都)の跡地から発見された木簡で延暦8年(789:推定)に「安宅駅戸主財豊成戸五斗」との記述があり通例であれば5匹の馬が配され、能美郡の郡津(湊)も設けられていたと推定されています。平安時代に富樫氏が領主になると新たに関所を設けたとされ源義経が兄である源頼朝から追われ平泉(岩手県平泉町)への逃避行で有名な「勧進帳」の舞台だったとも云われています(疑問視説の方が有力)。中世に入り日本海側の海運が盛んになると中継地として発展し、江戸時代初期に西廻り航路が開削されると北前船の寄港地として重要視されました。又、小松城の城下の外港としても重要視され、港には数多くの加賀藩の藩蔵が建ち並んでいたそうです。その後も多くの職種が集まる一大拠点となりましたが明治時代後期になると近代的な交通網が整備され海運業も衰微し、それに伴い町自体も衰退していきました。
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