【 概 要 】−総持寺祖院の創建は天平年間(729〜49)行基が開いたのが始まりと伝えられています。当初は、諸岡寺と称し延喜式神名帳に記載されている諸岡比古神社の社僧院でした。元享元年(1321)瑩山禅師が入山すると総持寺と寺号を改称し禅刹として境内を整備します。時の為政者である後醍醐天皇から庇護され「総持寺」の勅額を賜り、さらに曹洞宗の総本山に認められたことで寺運が隆盛し、その後も後村上天皇、後奈良天皇、後陽成天皇、後光明天皇と綸旨が下賜されました。総持寺は数多くの門人が集まり、特に五哲と呼ばれる太通・通幻・無端・大徹・実峰は傑出しそれぞれ普蔵院・妙高院・洞川庵・伝法庵・如意庵を設け「総持寺の五院」と呼ばれました。歴代領主からも庇護され鎌倉時代には地頭である長谷部家、室町時代は能登守護職である畠山氏、江戸時代は加賀藩主である前田氏から寺領の寄進や堂宇の造営などが行われました。元和元年(1615)には総持寺は永平寺(福井県永平寺町)と共に曹洞宗の大本山として江戸幕府が認め、徳川家康から1000両が寄付され幕府の祈願所となりました。明治31年(1898)の大火により多くの堂宇が焼失、これを機により大本山の移転を求める声が高まり明治44年(1911)に横浜鶴見へ移転、能登の総持寺は総持寺祖院と呼ばれるようになりました。
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