【 概 要 】−気多大社(石川県羽咋市)は能登国一宮、北陸道総鎮護として信仰されてきた名社で、平安時代中期に成立した延喜式神名帳には格式の高い名神大社として記載されています。信仰が始まった時期は第三者的な資料が無く不詳ですが崇神天皇の時代に創建したとも云われています。ただし、崇神天皇の在位は紀元前97年から紀元前30年なので歴史年表的には弥生時代中期にあたり、古墳時代以降に成立したと推定される大和朝廷の影響力が当地まで及んでいた可能性はありません(崇神朝を3〜4世紀とする説もあります)。又、古代の民が自然崇拝として信仰したとされる高い特徴ある山や神奈備山と呼ばれる山姿の美しい山も無い事から、信仰が始まったのは有史後の地元豪族の氏神や地元神として祀られたものが6世紀中頃から能登国が大和朝廷に込みこまれと推定される為、同時期に支配を円滑にする目的で気多大社の祭神が大己貴命(大国主命)に入れ替わったのかも知れません。又、6世紀前後は能登半島の有力豪族は七尾湾周辺に割拠していた事から、当地まで大和政権の支配地、前進基地があり、天皇縁の大己貴命(大国主命)が守護神として勧請されたとも考えられます。気多大社の本宮と伝わる能登生国玉比古神社では、本宮から分霊が勧請され気多大社が創建したとの社伝が残され、現在に継承される平国祭でも当社と本宮を渡御する神事が行われている事からも関わりが窺えます(大和朝廷が能登国を平定した後に七尾に祭られていた地元神を勧請して、当地に祀られていた大己貴命に合祀された?)。何れにしても近くの集落跡から7世紀頃の祭祀に用いたと思われる祭具が発見されている事からも、少なくとも7世紀には信仰が始まっており、次第に神社としての体裁が整えられていったと思われます。その後は歴代領主や為政者に庇護され社運を隆盛し、大正4年(1915)には国幣大社に列しています。
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